数字も肩書きもなくなった後に残るもの

こんにちは、りさです!
今回は、自分の中にずっとあった
〝ハリボテの承認欲求〟
が崩れた時のことを書いていきます。
この話そのものが、誰かの「ぬるま湯」から
抜け出すきっかけになると思いますので、
ぜひ最後まで読んでみてくださいね!
私は、2〜3年ほど
ブログのコンサルタントとして
発信を続けてきました。
振り返ると、集客の多くを
「自分を大きく見せる」ことでやってきた自覚があります。
肩書き、フォロワー数、売上。
外側の数字や実績を掲げれば信頼は得られる、と信じていました。
〝ブログで年収1400万円〟
〝SNS発信で年商3000万円〟
サラリーマン時代には目にしなかったような数字に、
私自身が縋っていたのです。
もちろん、そういう大きな数字って魅力ですし
発信始めたてだった私にとって
強力なパワーを持っていたと思います。
ご縁にも恵まれ、仲間も増えました。
ただ、わたしの主戦場だった
Instagramが成熟するにつれ、
状況は変わっていきます。
情報を詰め込めばフォロワーも保存も増えた時代から、
リールが必須になり、
離脱させない工夫と演出が当たり前になった。
リールが苦手な私は手が止まり、
そのあいだに全体のクオリティはどんどん上がっていく。
ビジネスとして合理的なのは理解しつつ、
どこかで「何か違う要素が混ざってきていない?」
という違和感も強まっていきました。
たとえば、リール動画ひとつ取っても、
最初はシンプルに情報や
気づきを届ける場だったはずなのに、
いつの間にか
「いかに最後まで離脱させないか」
「どうすれば数字が伸びるか」
という競争に支配されている。
音楽や効果音を駆使し、
過剰なジェスチャーやオーバーな演出で
視線を引きつけることが当たり前になっていったのです。
もちろん、マーケティングの観点から見れば正しい戦略です。
実際、それによって多くの人が注目を集め
成果を出しています。
でも同時に、発信する側が
「伝えたい想い」よりも
「見てもらうための仕掛け」
に意識を取られてしまう。
数字を追うことが目的化していき、
本来大切にしたかったはずの
メッセージや人柄が薄まってしまうのではないか。
そんな疑問が頭を離れませんでした。
「わたしは本当にこういう発信をしたいのだろうか?」
「数字のために、自分の言葉を加工していないだろうか?」
成果を求めれば求めるほど、
なぜか自分の熱量が減っていく。
この矛盾こそが、強い違和感の正体だったのだと思います。
「これまでのやり方では結果が出にくい」。
現実を前に、漠然とした不安が押し寄せます。
もっと頑張らなきゃ。
前みたいに大きく見せないと選ばれないのでは。
別のSNSも駆使しないと。
彷徨った先で、また数字を追う日々に戻ってしまう。
この1年ほど、そんな模索を繰り返してきました。
もちろん、その中でも新しい出会いはありましたし、
なんだかんだ売り上げの規模感は横ばい。
でも、心のどこかで
「このままじゃまずい」という感覚は消えないのです。
媒体を変えれば解決するのか。
新しいスキルを身につけ、
また肩書きを積み上げれば安心できるのか。
数字が増えればホッとするけれど、
減ったときの恐怖は前より大きくなる。
外から見れば立派でも、中はスカスカ。
いいバッグや服を身につけ、
「できる私」を演じる。
本心ではない外側の自分を塗り固めるほど、
不安はぐんぐん膨らんでいくのです。
これは発信者だけの話ではありません。
会社員なら自分の仕事ぶりを相対的に評価され、
学生や主婦でも周囲の目や比較がついて回る。
評価が下がった瞬間に、
自信まで一緒に崩れてしまう。
私自身、会社員時代の人事評価が
すんごく怖かった記憶があります。
昇格すれば仕事だけ増える気がして、
あえて試験を受けない、興味がないふりをする。
そんな逃げ方をしたこともあります。
結局、他人の評価を自分の価値と取り違えていたからですね。
これは副業でも同じです。
月10万円という目標に対し、
届かなければ自分には価値がないように感じてしまう。
数字が伸びているときは気分が良い。
でもどこかで落ちると、
一気に自己否定してしまう。
誰もが、大小の差はあれど、
ハリボテをまとって生きている。
そんなふうに思います。
じゃあ、どうすればその意識を手放せるのか、なんですが
決定的だったのは、
本当の自信は、外的な評価をすべて差し引いたあとに残るもの。
という師匠からの言葉でした。
最初は衝撃でした。
差し引いたら、私なんて何も残らないのでは??
って感じで。
でも、じっくり見つめると確かにあるんです。
評価を除いても、ここにいる自分が。
そこに存在するだけでいい、と腹に落ちた瞬間、
ハリボテの世界にしがみつく力が、ふっと抜けました。
それは、舞台の照明も衣装もすべて外して、
ただ素の自分としてステージに立つような感覚。
役を演じているときは華やかで拍手も浴びられる。
でも、舞台を降りたときに残っていたのは「役」ではなく、
「演じてきた自分」そのもの。
観客がいなくても声は出せるし、
台本がなくても立ち続けられる。
何もないと思っていたのに、
実際には〝存在している自分〟が残っていたのです。
もちろん、今も揺れます。
売上やフォロワーの数字を
全く気にしないのは現実的ではないし、
バランスは必要です。
それでも、
「数字=自分の価値」ではない
と切り離して見られるようになると、
不安が出ても戻ってこられる。
わたしが大切にしたいのは、
広く浅いつながりより、
たとえ少なくても深い関係でつながること。
フォロワー数は「偉さ」の証明ではなく、
比べるものでもない。
〝真にいいと思える関係〟を丁寧に育てることが、
これからの軸だと感じています。
ここで一度、疑問を投げかけたいと思います。
「あなたが今、必死に掴もうとしている数字や肩書きは、本当に自分を幸せにしているだろうか?」
もちろん、それが悪いわけではありません。
数字を伸ばすことに挑戦するのも素晴らしいし、
承認欲求自体は人間にとって自然なものです。
でも、そこにすべてを預けてしまうと、
必ず不安や恐怖がついてくる。
逆に「数字がなくても残る自分」を認められたとき、
初めて自由になれるのではないでしょうか。
わたし自身、外側の実績に依存していたから、
そのたびに心が揺さぶられました。
でも同時に、それは大切な
リセットボタンでもあったのです。
派手な数字や称号に守られた
ハリボテの自分が剥がれ落ちるとき、
残るのは素の自分。
そこから再スタートを切れるのです。
リセットボタンを押す瞬間は、怖さもあります。
せっかく積み上げたものを
すべて捨ててしまうような感覚になります。
でも不思議と、照明が消えた暗い舞台に立ってみても、
何も失われてはいませんでした。
そこに立つ自分の声や息遣いは残っていて、
「ああ、これが本当の土台なんだ」
と実感できたのです。
リセットがあるからこそ、
人は何度でもやり直せるし、
次の舞台をより自由に選べる。
そんな感覚を得られたのは、
外側の数字や肩書きが崩れ落ちたからこそでした。
結局のところ、
人生に「完全なゴール」なんてありません。
どこまでいっても「まだ足りない」
と思えば不安は消えないし、
「もう十分」と思えば歩みは止まります。
だからこそ、数字や評価にとらわれすぎず、
「今日、自分が何を大切にするか」
に立ち戻っていきませんか。
あなたが「ぬるま湯」から抜け出したいと思っているなら、
まずは気づくことです。
自分がいま何にすがっているのか
どんな評価に縛られているのかを認識すること。
気づきさえすれば、あとは少しずつでも手放していける。
戻ってしまう日があっても構わない。
大事なのは「また前を向こう」と決められることです。
数字に追われていた頃の自分を思い出すと、
今こうして素直に語れていること自体がすごく奇跡で。
素の自分を少しずつ信じられるようになっています。
その実感を、この記事に記しておこうと思います。
もし同じような不安を抱えている人がいたら、
「あ、私だけじゃないんだ」と思ってもらえたら嬉しいです。
私が目指しているのは、
深くて温かい関係が広がる世界です。
数字に一喜一憂するのではなく、
心から信頼できる人たちと未来をつくる世界。
その世界を、これからも育てていきます。
だから、今日も一緒に一歩だけ進んでみましょう。