誰かの期待じゃなく自分の声を選ぶ生き方

こんにちは、りさです!
今回のお題は、「親との関係」。
この記事を書く前に、
メンバーさん(20代)との音声コンサルで
印象的なお話がありました。
その方は
「携帯を持たせてもらったのは大学生になってから」
とのこと。
私の世代でも中学生くらいから持っている子が多かったので、
大学生からというのはかなり遅いなと感じました。
しかもスマホを持たせてもらっても、
LINEは禁止。
とにかく「これはダメ」
「あれもダメ」と制限が多かった家庭のようでした。
それでも、それが当たり前だったから
あまり疑問にも思ってなかったそうなのですが・・・
あるとき知人から
「それって親に洗脳されてない?」
と言われたことがあったそうです。
それに対し、
「なんでそんなひどいことを言うの?意味がわからない」
と逆に相手に対して不信感が湧き、
距離を置いてしまったそうです。
当時は、自分の人生を歩んでいないことすら
自覚していなかった。
「親に従って生きるのが当たり前」
と思い込まされていたのです。
これ、厳しい親に育てられた人なら
きっと心当たりがあると思います。
周りの友達が当たり前のように
スマホを持っているのに、自分だけ持てない。
あのときの寂しさやしんどさって、本当に大きいんですよね。
もちろん親の気持ちもわかります。
「犯罪に巻き込まれたらどうしよう」
「変な方向に行ったら困る」
って心配だったんだろうなって。
でも、周りと違う環境に置かれるのはやっぱり辛くて、
そのうち
「親の言うことが正しいんだ」
って信じ込むしかなくなるんです。
私はずっと「親の期待に応えなきゃ」って思っていました。
母はあまり褒めることがなくて、
叱られることも少なかったけれど、
心に残っているのは
「褒められなかった記憶」なんです。
だから「どうしたら褒めてもらえるんだろう?」って、
いつも試していた気がします。
嫌われるのが怖くて、小さい頃はお小遣いを使って、
仲良くなりたい子に
ちょっとしたプレゼントを渡したこともありました。
「これで喜んでもらえたら、自分を好きになってくれるかも」
って思ってたんですよね。
自分の魅力を言葉で伝える方法がわからなかったから、
物やお金でしか繋がれないと思い込んでいた。
だから
「何かを差し出さないと、自分には価値がない」
って、子どもながらに思い込んでいたんです。
程度の差はあれど、
こんな風に親の顔色を
うかがってしまうことってなかったでしょうか。
親に心配をかけたくなくて、
本当はやりたいことを諦めたこと。
怒られるのが怖くて、胸の中にあった本音を飲み込んだこと。
そのときは、気遣いや優しさのつもりだったかもしれません。
でも振り返ってみると、それって
「親の声に縛られていた生き方」
だったのかもしれないんです。
この「親の声」がやっかいなのは、
大人になっても消えないこと。
社会人になっても、恋人やパートナーができても、
心の奥にはまだ親の価値観が根を張っています。
たとえば、
就活をしている時。
結婚を考えているとき。
新しい挑戦をしようとしたとき。
気づけば「親ならどう思うだろう?」
と無意識に照らし合わせてしまうんです。
たとえ親と離れて暮らしていても、
心の中に見えない「監視カメラ」が
ずっとついて回っているような感覚。
私も長い間、その呪縛から抜け出せませんでした。
自分では「自由に選んでいる」と思っているのに、
ふと気づくと基準はいつも同じなんです。
「親に褒めてもらえるかどうか」
「嫌われないかどうか」
その物差しで、人生の大きな決断も測っていました。
「何かを差し出さないと、自分には価値がない」
と思っていたと書きましたが、
私は、
誰かのために我慢することや自分を削って差し出すこと
それこそが美しい生き方だと思っていました。
でも、そんな自己犠牲を繰り返すと
「もっと頑張らなきゃ」
「まだ足りない」
とエスカレートしていきます。
相手に与えても与えても、満たされないのです。
やがて
「私はこれだけやっているのに、どうして認めてくれないの?」
という虚しさや怒りに変わっていく。
犠牲の上に築かれる関係は、
どこかで必ず歪みを生みます。
では、どうすればその呪縛から解放されるのでしょうか。
それは、「親の声」と「自分の声」を切り分けることです。
何かを選ぶとき、
「これは自分が本当にやりたいことなのか?」
「それとも親に評価されたいから選んでいるのか?」
と問いかけてみてください。
これ、驚くことに
私たちの行動の多くは
「親フィルター」を通して
選ばれています。
もはや、気づくことも難しいほどかもしれませんが、
何かを決めるとき、無意識のうちに
「親ならどう思うだろう」
と照らし合わせてしまってないでしょうか。
自分の幼少期を振り返ってみるのも大事です。
「あのとき、私はどんな気持ちだっただろう?」
「本当は何を望んでいたんだろう?」
って。
私の場合、小さい頃のお小遣いを思い出します。
友達と仲良くなりたくて、
お揃いのプレゼントを買って渡していました。
(鉛筆とかですが)
そこにあったのは
「仲良くなりたい」
「好きになってほしい」
という純粋な願い。
でも私はそれを「物」でしか表せなかった。
つまり、自分の魅力を信じられなかったんです。
今になって思うのは、
本当に必要だったのは
「与えること」じゃなかったということ。
大切なのは、失敗しても、不器用でも、
「自分をそのまま出すこと」。
その声に耳を傾けられたとき、
ようやく「親の声」から
自由になれるんだと思います。
この記事を読んでいるあなたにも、
似たような経験がないでしょうか。
「本当はやりたいのに、反対されそうだからやめておこう」
とか
「心配をかけるくらいなら、我慢しておこう」
とか、気づかないうちに
自分の想いを飲み込んだことはありませんか??
その小さな我慢が積み重なっていくと、
いつの間にか自分の人生をすり減らしてしまうんです。
だからこそ、一度立ち止まって考えてみてほしいんです。
「これは私の選択?それとも親の声に従った選択?」
「私は本当はどうしたい?」
その問いかけが、
自分の人生を取り戻すきっかけになると思います。
私はこれまで「自己犠牲こそが美しい」
と信じていました。
でも本当に大切なのは、
犠牲ではなく〝純粋な想い〟なのだと思います。
誰かに条件付きで尽くすのではなく、
ただ「その人を想わずにいられない」という気持ち。
そこに見返りや評価はいりません。
そうした想いこそが、究極の愛であり、尊いのです。
今日のお話を通して、
ぜひあなた自身の幼少期を振り返ってみてください。
あのとき何を感じていたのか、
どんな願いを持っていたのか。
そこに今の生き方を変えるヒントが隠れているはずですよ。